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人間とは何か [思索の散歩道]

私は一体何者だろう。どこから来て、どこへ行くのだろう。

父と母がいて私がいる。父と母にもそれぞれ父と母がいる。私から見れば祖父母である。祖父母にも父と母がいる。そうやってどんどん遡っていくと一体どこに行き着くのだろう。ここに記したことは普段考えていることのアウトラインを大まかに表しただけである。大雑把過ぎるきらいもあるので興味のある方だけ読み進めて頂けたらと思う。

  • 人間であることは当たり前なのか

現在地球の人口は約63億人と言われる。その誰もが例外なく100年そこそこで死亡する。繁殖行為によって自分の肉体を子供に受け継がせながら、自分の歴史を残させる。人間の精液には1ccあたり6000万から1億個位の精子が存在しているという。そのどれもが人間になれる要素を持っている。よく知られているように卵子と結合できるのはその中で1つ、あるいは数個でしかない。一度の射精で5cc程が出るというから、極端に言えばその可能性は1/500000000(5億分の1)しかないことになる。地球人口の半分が男性であると大雑把に考えてみると、31.5億×5億(3150000000×500000000=1575000000000000000)=157.5京(けい)個の中から人間として生まれてきたのが世界の人口ということになる。非常に低確率であることがわかる。その他、ありとあらゆる細菌や微生物、諸動物等の生命体として生まれる可能性を合わせて考えると、気の遠くなるほど人間としてこの世に生まれ出でるのは低確率であるように思える。

  • 地球で生きてきた事実

新人(クロマニョン人=現在のヒト)の祖先にあたる猿人の登場は約180万年前程だと言われている。地球誕生は約46億年前と考えられており、海の誕生は38億年前、原始大陸の登場は約27億年前とされている。原始大陸には「ストロマトライト」と言われる石灰岩が見つかっており、これは「ラン藻(シアノバクテリア)」の死骸が形成したと言われている。生命体の発祥から考えると人間の誕生の歴史などまだ年表にシャープペンシルで「点」を打つほどに短いものだ。

ともあれ、生命を考える上で地球のことを考慮に入れないわけにはいかない。地球が生命を育んできた紛れもない事実は、やがて「地球はどうやって出来上がったか」ということに行き当たる。星の形成の一般論は星屑が寄り集まって出来ていると説く。「超新星爆発」という語があるが、あれは新しい星が出来るのではなく、一つの星の終わりのことを指しているのである。そして、爆発した星の破片(屑)がお互いを引き寄せて新しく「星」を形成すると考えられているのだ。一つの星の死は、また新たな星の生へのプロローグである。地球もまた例に漏れず、どこかの星の残骸が集まって形成されたものなのだろう。時々地球に飛来する隕石や、月から持ち帰ったという岩石の組成を調べる意義は、そうした根源的な実在に向かう人間知性の挑戦なのではないだろうか。地球誕生の歴史を考えれば、生命は「宇宙から生まれた」ということを認識しなくてはいけないだろう。
膨大な予算が計上される宇宙開発は時として「無駄」であるとの声も聞く。そして、それはある意味で正しいと思う。だが、人間の宇宙へのまなざしは自己回帰をしようとする本源的な欲望に基づいているのかもしれない。そう、「人間とは何か」を知るために。

  • 人間は宇宙から生まれた

地球も宇宙にある以上は人間も「宇宙人」であるし、宇宙から生まれたと考えられなくもない。人間は100年程で死を迎え、地球はあと50億年ほどで死を迎えるようだ。それは太陽の死(赤色巨星化)に伴って訪れると考えられている。宇宙自体もゆっくりと冷えていき、やがて収縮して(閉じて)一点に戻るとも仮説されている。そしてまた次なるビッグバンが想定されるのだ。まるで生と死を点として、その間を線で繋ぐ永遠性を感じさせるようだ。始まりもなければ終わりもない。人間が子孫を残し死を迎えるのもそうした宇宙との繋がりからなのだろうか。その子孫も5億という数のうちで、たった一つだけが選択される事実。数え切れない宇宙のチリが集合して出来上がる星のドラマ。この不思議なる類似。一体人間とは何なのか。

  • 人間の中に宇宙があるのかもしれない

 宇宙の広がりはとても人間自体のサイズとは比べ物になどならない。たった2mほどの大きさしか持たない人間と、光の速度を単位とする宇宙の大きさは、比較すること自体に無理があろう。
現在、宇宙は光のスピードで「遠ざかっている」と説明されている。だが、そのスピードに勝るとも劣らずのものを人間は持っている。そう、それが「心」というものではないだろうか。心は丸いわけでもなく四角くもない。固くもなくてやわらかいとも言いがたい。すなわち捉えがたい宇宙のようなものであると考えられそうだ。心は宇宙の先にあるものを意識する。その外側(これらの表現がよいかどうかは別とする。これらを的確に表現する語を人間は持たないのだ。すなわち「人間知性の限界」とも言えるか)すら思考する。と、同時に、心の主人たるべき人間は意識を支配することはできても無意識層に対してははまるで無頓着である。意識は無意識の柱の上に立っていることが心理学では説かれており、また哲学が挑戦するのもその部分なのだ。もちろん、この無意識に一番果敢に取り組んでいるのが高等宗教一般であることはよく知られている通りだ。
結局、意識を左右するものが無意識である以上は、この無意識への認識と改革への取り組みこそ人間には必須作業であり、かつ、急務であるように思われる。この無意識部分には過去のこと=連続した生命の記憶(精子にはその記憶も刻まれていよう)、日常では取り出せない人間の持っている驚くべき力(世に言う超能力のようなもの)、定義に揺さぶられない本質的な善、宇宙との繋がりを求める積極的な何かが存在しているとも考えられる。それらを意識の上に取り出すことがきっと出来るのだ。
こういった無意識も「真空」と呼ばれる宇宙空間に内在していた何らかの「エネルギー」と相通ずるものがありそうだ。宇宙科学では6種類の素粒子が2種類ずつ対生成・対消滅を繰り返したとされ、その対がどういうわけか「破れた」のだという。その破れからあらゆる物質の生成の大元がきっかけ作られたと考えられているのだ。真空と言うのは「0」のことではなく、「何らかの可能性を秘めたそれ自体」ということが考えられそうだ。人間の行動は「何かを思い、そして行動に移す」ことから離れることは出来ない。故に「心」が人間の可能性を左右する主体であるということが言えるであろう。

  • 自分の宇宙にキラ星がたくさんあるのだろう

星を見上げるとハッとする。綺麗である。何故?と言う問いには答えられないのだが、綺麗だと感じる。理由なく思うのは何故だろう?元々星達と関係を持っている私の「古の記憶」がそうさせるのだろうか。心理学者ユングは「原初イメージ」というものを想定したという。それは人類の無意識層に収められた統一的感覚なのだそうだ。これを意識上に取り出したからこそ、多くの異なる諸民族の儀式や民話が洋の東西を問わずに類似性を保ちながら創り上げられていったと考えるのだ。これは人間の心の奥底にある潜在意識層・無意識層に人類発生以前の遺産が人類共通の記憶として刻まれているということだろう。
どんな国の、どんな民族の、どんな人種の子供達であろうと、屈託のない笑顔達は私達の心を豊かにしてくれる気がする。昔は一つだった超大陸。やがてまた今の世界も一つの大陸になる日が来るかもしれない。そんな時に国境なんて関係あるのだろうか。事実、アフリカはヨーロッパに年数センチずつ近づいている。人間一人ひとりに宇宙があるように思えてならない。だから、一人が大切に思えて仕方がない。一人ひとりがキラ星の如く活動する生命体だ。そんな風に考えることも出来るのではないだろうか。

「星を綺麗だと感じる」理由…。そんなことを考えながら夜空を見上げて歩くことも少なくない。遠き記憶の故郷を見つめて天空を探索するのが人間なのだろうか。宇宙へ飛び出すのは帰巣本能からなのか。そういったことがいつも私の頭を離れない。そしていつも一人考える。

人間はどこからやってきたのか。そしてどこへ行くのかと…。


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アキオ

確かめるすべは無く、見届ける事も不可能。

それゆえ、思いは宇宙を越えるのかもしれませんね。
気の遠くなるような時間、気の遠くなるような距離、
宇宙は、自分の外にも中にもある。
by アキオ (2005-08-02 08:04) 

kyao

今のような物理定数を持った宇宙が誕生したこと。
太陽という恒星が極めて安定した星であること。
太陽の周りの現在の位置に地球のような惑星が誕生したこと。
地球の地軸が23.5度傾いていること。月という衛星があると言うこと。
地球に海が出来たこと、炭素を主体とした生命が出来たこと…などなど。
こうした「偶然」がすべて重なり合った結果が人間という存在です。
そう考えていくと「人間原理」こそすべてのように思えますが、おそらくそれだけでは不十分だと。
つまり、人間の「次」を考える必要があると思います。物質的にも精神的にも。
by kyao (2005-08-02 08:24) 

barbie

長〜いスパンで考えると今の悩みなんて大したもんじゃないですね。けど、毎日毎日食いの(じゃなくて悔いの)ない人生を送らなきゃね(^_-)-☆
by barbie (2005-08-02 14:58) 

ぼうずオヤジ

私、宇宙の”広さ”や”果て”を考えると眠れなくなっちゃうんです。
前に一度、自分の指を動かすという感覚を自分で感じること(認識することかな?)が出来るかと挑戦してみた事があります(何やってるんだかねぇ)。
当然納得できる答えは見つかりませんでした。
自分は、意識して自分の何をコントロールしているんだろう・・・って疑問が出てきて、まぁた眠れなくなっちゃうんです。
by ぼうずオヤジ (2005-08-02 16:30) 

チカリ~ナ

以前テレビで 『驚異の小宇宙・人体』って番組がありました。
体は物質的に限りがあるけれど、心は無限大に広がれるような“小宇宙”が
ありますね。
数年前、父が亡くなり、毎日どうしょうもないくらいに自分を責めていた私は
ある一編の詩に出会いました。 (多分子供向けの詩だと思いますが・・)
ちょっと書いてみていいですか?
   
   宇宙は 百五十億年から二百億年前の
   大爆発で出来たといわれている
   星も、  雲も、  石も、
   人も、  鳥も、  花も いっさいが
   同じひとつの爆発から生まれた
   「きょうだい」だ

   二百億年に対して、人の寿命は
   せいぜい百年
   「一瞬」だ
   その一瞬を選んで 
   同じ地球に 生を受けた
   その事をを思えば 絶対に
   自分をいじめてはいけない
   人をきずつけてはいけない

   かけがえのない一生を 一緒に、
   大切に生きよう

   この宇宙にやってきた 誰もが
   「宇宙の王子」
   「宇宙の王女」

なんかこんなちっぽけな自分でも 少し宇宙を感じられたことに涙が出ました。
そして小我の自分を反省しました。
『感嘆しても感嘆しきれないのは 天上の星の輝きと
 我が心の内なる道徳律である―』
哲人の残してくれた言葉に 限りない勇気をもらいました。
長くなって ごめんなさい。
by チカリ~ナ (2005-08-02 17:23) 

銀鏡反応

今回の明士さんの記事にはいちいち納得です。まさしくそのとおり!と肯くばかりです。たしかに、人間を含め数多の生命は、宇宙から生まれてきたのだと思います。
ひとつの生命が人間に生まれて来る確率は極めて低い。これは真実だと思います。また、宇宙は人の外だけにあるのではなく、内にもある。これも真実だと思います。人間の内にある「宇宙」――それは人間の生命に秘められた無限の可能性、生命の中心にある(とある高等宗教で説いているところの)如何なる障害、如何なる事象にも揺るがない本質的な善、生命の「無意識」の部分に蓄積されるという、自分が今の姿で生まれる以前、つまり「過去世」で行なった諸々の行ない(業=カルマ:宿業ともいう)だと思います。人間はこの自分の中の「宇宙」を意識することによって、あらゆる苦悩、障害、葛藤を克服し、更なるステージに前向きに向かうことが出来る筈です。小我にとらわれがちな私達。そんな私達を小我から解き放つのは、宇宙そして生命そのものへの畏敬と、生命そのものを説ききった哲学であると確信しています。
少々難解な文になってしまいましたが、私も内なる宇宙を自覚しつつ、自らを成長させて行きたいと思いますので、お互いに人らしい人として、よい方向へと成長していこうではありませんか。
by 銀鏡反応 (2005-08-02 18:56) 

sumeru

私も、宇宙的規模で物事を考えることを忘れてしまいます。
いつもそうあらねばと参明学士さんの記事を読んで、改めて思いました。
by sumeru (2005-08-03 16:46) 

参明学士/PlaAri

アキオさん、広大な宇宙、確かめることって出来ないんですよね。だからこそ自分の内面の宇宙に関してはより突き詰めて知っておきたいものですね^^
宇宙から生まれた我々ですから。

kyaoさん、一つ一つの結果(偶然か必然かはこの際問いませんが)の積み重ねが人間という存在ですよね。そしてそれを生み出す可能態が宇宙には蔓延しているように感じますし、我々が思考しうる生命体を大きく超えた形の実在がある可能性は、宇宙の中にごく普通にあると思っています。
翻って地球上では科学が進んでも生命の当体を掴むことができない現状であり、そして諸科学者は肉体の分析手法と精神の分析手法を混淆してしまった過ちがあるように感じています。哲学・宗教・科学の諸分野が演繹・帰納の両方から人間へのアプローチを試みる必要があるはずです。精神に関することは安易な数値化への取り組みとその分析によって「人間を物質化」させる認識をもってしまうかもしれません。これは人間の諸活動にとってプラスに働く思考ではなさそうです。人間を物質化することが人間そのものを粗末に扱う温床となってしまったはずです。もっと人間そのものが本来持っているであろう能力と、生命としての歩みを知る努力が要請されている気がしてなりません。

barbieさん、仰るとおりですね^^悔いの無い日々を送ること。それは今を全力で生きることに繋がっていきそうですね。そうした日々でありたいと思っています。

ぼうずオヤジさん、自らの指を動かす感覚を自ら認識しようとする思いは凄くよくわかる気がします。そういうことって自分を客観視する機会なのですよね。自分とはいかなる生き物なのか。そして空を見つめたり、人が集まるホームを見つめたりする。この人たちはどこから来てどこへ行くのかと。もちろん場所じゃなくて「生物として」の意味の上でのことです。初めてそこで親と自分、子と自分、他人と自分、国家と自分、世界と自分、自然と自分、宇宙と自分との連環関係に思いを致すことが出来る気がするのです。

チカリ~ナさん、詩を拝見いたしました。感銘いたしました。ありがとうございます。
生と死のこと。お父様を亡くされたことはチカリ~ナさんにとって大きな思考の転機だったのかもしれませんね。私も近親者の死を目の当たりにすることで、「人間とは何か」を考えざるを得なくなりました。生と死は長大な宇宙の歴史や生物の歴史において「同一なるものの義」ではないでしょうか。生まれることは死へのプロローグ、死はまた生へのプロローグ。一つの星の死は、新たな星の形成へのきっかけ。だからこそ「死」が具体的に提示することは悲しみじゃなくて新たな生への営みだと思っています。もちろん、そこには亡くなった人と一緒に生きてきた歴史がありますよね。悲しみを否定することは誰にもできません。そしてその悲しみを握り締めた私達もまた常に死への彼岸に立っています。この肉体への別れは確実です。この別れが確実であるために種を残していく本能が備わっているのかもしれませんね。星達もまたそのように出来上がっているようですしね。人間の中に宇宙があると感じることが、人間を知る一つの手立てになるはずです。私は科学の発達が演繹的哲学の証明に繋がってくるように感じるのです。

銀鏡反応さん、人間として生まれてくる確率の低さは、すなわち互いの生命の尊厳を高めるという認識を持つことに有効に働くと思うのです。現在人間一般の能力は無意識を取り出すまでには至っていません。なので、精子時代の卵子結合への闘争のことは覚えていない(意識上に取り出すことはできない)し、過去というか生き様というか、そういったものを認識することは余程の覚者でなくてはできないことでありましょう。ですが不断の精神への回帰をする努力と練磨が無意識をやがて意識の上に取り出すことを可能にさせるはずです。それは豊かな人生を現出させる支えとなると思います。ユングはその辺のことも考えていましたし。「人間とは何か」を問うことは彼の言う「原初イメージ」に近づくこととも相通じます。世にある社会制度(民主主義・社会主義・共産主義)や政治、文化等も全て人間を基礎として成り立つものです。社会制度などは手段です。これでなくてはいけないと呼ぶ類のものではないと思います。より人間を活かし、自然や人間以外のものとも共生していける体制を構築・改善していき続けられるならば、その都度選択していけば良いものでしょうしね。ですが、人間そのものはそうはいきません。この探求は本来演繹的性格を持つ高等宗教や、哲学に委ねられることになるでしょう。そして科学の進歩・発達はその検証に挑戦していくはずです。その意味で宗教は科学的でなければならず、科学は宗教の曖昧さを払拭し真理へと近づくツールへと発展しなくてはいけないはずです。容易に科学で否定されてしまうような宗教はもはや「カルト・インチキ」に該当すると言って過言では無さそうです。神や仏とは何かを考え、分析することを恐れてはなりません。そしてそれを拒否する宗教はもはや次世代に残っていくことはできないはずです。生命そのものを凝視し追及する高等宗教のみが科学と共存し、あいまって発展して行くことになるのではないかと思っています。そしてそれは「人間のために存在しなくてはならない」ということを忘れてはいけないはずでありましょう。

toさん、宇宙を見つめることと自分との連環を考えること。どこかでこれらのことはきっと繋がっているはずです。それを考える時に初めて解放された気分になるのは何故なのかなぁと感じます。宇宙大の大きさを包含する我々の心ですから、そこに合致するような考えを持ったときに安心するのかもしれませんね。
by 参明学士/PlaAri (2005-08-04 02:22) 

ago-waki

「人の中に宇宙があるかもしれない」という文に、手塚治虫の「火の鳥」を思い出しました。あのマンガの中で、火の鳥が我王を宇宙の外や物質の内へ導いたシーンがありました。宇宙を飛び出ると、それぞれの星を一つ細胞になっていて、さらにその外に宇宙が存在したり、物質の内に入ると、細胞が星のように回っていて、そこには宇宙が存在していたり・・・。

人の心(思考)は光速を越えます。想い描いたその瞬間に、その場所、その場面に行くことができる。脳みその中を流れている電流(パルス)がそれを実現しているのか、よくは知りませんが・・・。

わたしは、人の心の中には、宇宙がある(あるいは宇宙とつながっている)と思います。そして、その宇宙が人全員(あるいは全ての生物や器物など)とつながっているんじゃないかなぁ?と思います。
だからこそ、音楽や絵画などの芸術は、言葉の壁を越えて、様々な人たちに感動を与えるんだと思います。これは、人の心の中に、何か共通の「何か」があるからこそ、だと思います。・・・ちょっと違うかな?

・・・とりとめもなく、まとまりのないコメントを書いてしまいました。m(_ _)m
by ago-waki (2005-08-06 12:59) 

一体自分というものはどっから来たんでしょうね。そしてMY息子の行動のあるところに水郷の遺伝子が。。その根源は。。と言うと何代も積み重ねた経験がいつの間にか体へと浸みて入るんでしょうね。。
by (2005-08-06 23:46) 

参明学士/PlaAri

しゃくれアゴさん、音楽や絵画が大陸を隔てても存在する理由は、きっと人間が共有している「原初イメージ」によるものなのでしょう。なにせ意識的なことに対しては分析が進んでいても、無意識となるとまったく自分では「知りえない」領域になってしまいます。この辺をどう捉えるかという精神的作業を行うことが充実した生への第一歩かなぁとも感じたりしますね^^
いずれにしても宇宙の何らかの要素から誕生した人間が、それを無視して自らを振り返ることはできません。宇宙への情熱はそのような人間の本性に基づいているのかもしれないですよね。

水郷さん、息子さんの存在を考える時にまた我自身に思いを致していらっしゃるのでしょう。そうですね、その根源への問いは汲めども尽きぬ生涯に亘る自己探求への情熱へと昇華されるのかもしれませんね^^
by 参明学士/PlaAri (2005-08-07 23:44) 

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