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人はみんな「てんびん」だ [思索の散歩道]

たとえば、「自由」という考えがあるよね。

みんなが憧れる言葉、「自由」。

でも、これはなかなか難しいことなの。

ぼくが自由であることを保つためには、あなたの自由を認めなくちゃいけない。

ぼくだけが自由であなたは不自由でいなさいって言ったらきっと争いが起こる。

そうすると、あなたの自由はぼくの自由を時に邪魔することも出来てしまう。

そう、あなたがぼくに関わることも「自由」だから。

逆を考えてみよう。

ぼくがあなたを好きになる。それは自由だ。

でもそれだけじゃいやだと思う。

あなたと「お付き合いをしたい」。その想いは自由だろう。

でも、あなたにそのお願いをしたら、あなたの自由を邪魔することになるかもしれない。

かと言ってその邪魔が怖くて何も出来ないんじゃ、人生に何の意味があるだろう。

ここでお互いの自由は「てんびん」にかけられる。

良い意味で探りあいになるし、話し合いになる。

あなたがイヤと言っても強くお願いをするかもしれない。

相当、あなたの自由を侵害していると知っても。

あぁ、こんなぼくに自分の自由を叫ぶことなど許されるだろうか。

でも、人間ってどんな時でも「自分の自由」は声高に叫ぶよね。

自由だけじゃ何か足りない気がするんだ。

じゃあ、ぼくたちにとって大切なことって何か。

 

 

そうだな。

それはきっと「自由」には「受容・検討・対話」がセットで付いているって知ることなのかな。

 

 

靴は左右揃って役に立つ。右だけでも左だけでも結局は困る。

息は吸ってるだけじゃダメで、吐かないことには苦しくてしょうがない。

麺だけでは悲しい。スープは欲しい。指じゃ食べにくいから箸も欲しい。

刀と柄。刀だけじゃ自分の手を切ってしまう。柄がないとダメだ。

「好き」だけじゃいやで「答え」も欲しい。これもセットだ。

 

自由…。

受容とセットじゃなくては成り立たないと思う。

ぼくは今までどれほどの人の自由を侵害したろうか。

そのくせどれほど自分が自由の身だから「構ってくれるな」と思ってきたか。

ぼくは自由。

あなたも自由。

でも関わり合いの中で「それなりにお互いの自由を侵害してる」。

あぁ、そうか。いつの間にか互いに受容している部分があるんだなと思う。

意見も検討も対話も抗議も怒りもある。それぞれが自由なんだけど、他人に対しては「自由の侵害」になるよね。

結局、自由というのは雑多な関わり合いからの脱却ではないんだろうな。「判断の自由」ということになるんだろうか。

 

そこで、もう一つ気になることがあるんだ。

 

判断の自由はいいけれど、自分が考えて下した判断なんてどれほどあてになるのだろうということ。

たかだか知れたぼくの生き様。

経験則だけで自分で「自由に」物事を判断していたらどうなってしまうのだろう。

きっと愚かなことになる。誰でも人間「楽」をしたいものだ。

だが、「楽」を重ねた人間の魅力のなさといったらどうだろう。

いやだ。あれだけにはなりたくない。どうしても。

判断の自由を活かすために、己を磨かねばならないようだ。

学ばねばならない。今まで生きてきた人の知恵も借りながら。

そんな時、道徳・倫理・宗教・哲学・教育の力は俄然大きくなる。

でも、これらはぼくの自由を時に「侵害」する「心外」なものだ。

とても必要なのに、ぼくを侵害する。

あぁ、自由と受容。

難なり。

 

でも、時に「受容」の方がぼくを成長させてくれるかもしれない。イヤなんだけどきっとそう。

だってぼくだったら受容のない人のそばに行きたくないもの。

自由だけを主張する人よりも受容をセットにしている人と仲良くしたい。

それって何でも「ハイハイ」と返事するという意味じゃないよ。

まずは話を聞こうとするスタンスを持てるかどうかだと思うな。

 

最後の判断は自分が下す。

それでいいじゃないか。

その基準は「自分よがり」か「自分以外のものを受容を通して判断する」か。

基準を磨き抜いた人は輝きも大きい気がする。

基準の綺麗な人はすがすがしい。

基準が「自由」だという人の主張は何だかちっちゃいものだ。

 

この世には「てんびん」にかけねばならぬものが多すぎるのか。

重さを量るてんびんはちゃんと止まる。

でも、自由をはかるてんびんはしばらく止まりそうもない。


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コメント 8

kyao

私も含めて、たくさんの人が誤解していると思うけど、「自由」と「奔放」はまったく別物ですよね。ここで明士さんが仰っているのは「奔放」の方だと思います。まずはみんな、そこから認識しないと。
by kyao (2006-09-15 19:21) 

ブタゴリラ

自由って
選択・決断・責任なのかなって思ってます。
責任には、思いやりが不可欠で、、、
重なっていく深まっていく思考は止まることがありません。
by ブタゴリラ (2006-09-16 12:05) 

参明学士/PlaAri

★kyaoさん、そうですね。奔放と自由。「自由奔放」なんて言葉があるくらいですから、混同は実際かなりあるのではないかと思います。さほど自由の価値を理解していない人が「自由」を標榜する時代ですから、なかなか大変な世相だと感じますね。

★ブタゴリラさん、責任ってとても重要な要素ですよね。

>責任には、思いやりが不可欠で

そうですね。人にアドバイスをしたり何かを勧める時にだってやはり「責任と思いやり」はセットになっていなければいけないんですよね。我々は常に関係性の中での生を強いられていますから、本当は自由の意味をもっと深く教えて行くべきなのかもしれませんね。
by 参明学士/PlaAri (2006-09-16 15:50) 

銀鏡反応

自由とは…「奔放」「自在」「闊達」…の動的な意味と、「責任・受容・寛容・他者を慮る精神の余裕」などの心的内面をさす意味と、両方含まれている言葉ではないでしょうか。本当は人間が常に関係性の中での生を生きている以上は、自由についての本質を、せめて我々が身をもって次の世代に教え伝えるべきなのに、当の我々自体が、前者の動的な意味での「自由」、なかんずく「奔放」の方向に流れ過ぎてしまい、その為にあらゆるところでトンでもない物事が常時起こっている。私達はいま少し、この「自由」という言葉を後者の心的内面の意味する言葉として捉え直し、自らの身をもって、その意味に沿った行動を志向していくべきなのかもしれません。
by 銀鏡反応 (2006-09-17 12:45) 

mana

「奔放」って、
度が過ぎると単なる「わがまま」という事ですね…
バランスを取るためには、色々な分銅が必要なのかなぁ~
思いやりの分銅は多めに…
by mana (2006-09-17 23:05) 

参明学士/PlaAri

★銀鏡反応さん、「自由」という重要でありながらも漠然とした概念をきちんと説明していくことは大人側の責任ですよね。要するに銀鏡反応さんも仰っているように、「関係性の中での生」ということを人類がどう自覚して行くかということが大切でしょう。人間は「それ自体」のみでは生きて行くことはできません。そうした原点に常に立ち返りながら、自由の意味を再確認して行く作業がどうしても必要ではないかと思います。

★manaさん、「思いやりの分銅」とはいい言葉ですね。その通りだと思います。思いやりを多く使って損をすることはありません。たとえそれが相手に利用される結果となっても、己の生きかたが輝くということには変わりないはずです。他人との関係性の中でいかに周囲への配慮を重ね、必要とされる人間になっていくか。お互いがそのような感覚を持ち合うことによって世の中は良くなっていくものだと思うのです。
by 参明学士/PlaAri (2006-09-19 00:23) 

自由。。この言葉は実に日本では曖昧ですよね。。
寛容・責任・義務などが含まれないと。。社会の自由というものも必要ですからね。。
社会と個人の「てんびん」でもありますよね。。
by (2006-09-19 12:52) 

参明学士/PlaAri

★水郷さん、自由の曖昧な受け止め方が社会を少なくない程度に歪めてきたと思えますね。大体、法治国家に住んでいる我々は「法律」には厳しく拘束されています。だから「言論の自由」とか「結社の自由」とか「~の自由」と言う風にことこまかく自由は細分化されていると言っても良いでしょう。思想・良心の自由という言葉をどのように用い、解釈するかの基準があまりにも壊れているということなのかもしれませんね。
by 参明学士/PlaAri (2006-09-19 13:32) 

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