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なんで生きるのかな [思索の散歩道]

 世の中のすべてのことに考えが至っているような人はいないだろう。ということは、我々人間は自分が知り得ている情報やそれに基づく認識だけで生きているということになる。広い視野でモノを見るといっても、それはどこかの他人と比べて視野が広いかもしれないということであって、決して完全なのではない。全てを知りうることが出来ないということは、人間は結局「適当」な認識を持つ以外にない。

 「日本人という民族ははっきりと答えを言わない連中だ」と、外国人から言われることがある。ところが日本をもう少し細かく見ると県民性というのがあって、「関西人と東京の人間はこんなにも違う」などと耳にすることがあるだろう。関西人と東京人に違いがあるのに、日本の外から日本を見ると「日本人はこんな連中だ」とまとめて認識されてしまう。更に言えば「関西人で一括りにするなよ。色んな人がいるんだ。」という話もよくあるだろう。確かにそれはそうなのだ。どの地域に住んでいるかで一人の人の個性まで決め込むことはできない。人は一人一人違うのである。
 では、国民性とは一体何を指しているのか。我々日本人が「日本の国民性はこうだ」とそれとなく認識しているものは何なのか。日本人は勤勉・実直・エコノミックアニマルなどとも言われる。あなたの目の前の人の全てが当てはまるだろうか。国民の全てに当てはまるだろうか。それともそういう人の数が多いということか。ではそれ以外の人は日本人ではないとでも言うのか。厳密な定義はやはり出来そうもない。だから結局は「適当」な認識にしか至らないとは言えまいか。

 私は自分自身を「どちらかというと頭の固い人間」と分析している。実は私はこういう自分をあまり好ましくは思っていない。だからどこかで圧倒的多数の流行や世相に身を任せて適当さやシンプルなイメージで人生を進みたいとも思うのだが、それはどうも自らの思想や哲学に対して背信的なのではないかなどと「頭の固いことを思う」のである。そしてそんなことで立ち止まってしまいそうになるほど愚かなのかもしれないなどと考えたりもするのだ。一方、頭が柔らかいということは、「何でもあり」ということを肯定しかねない。私だって世の中何でもありだと認めたいものだ。だが、そうなれば公正や公平や正義や信念とは一体何なのか。ただのルサンチマンの叫びだろうか。少し極端な志向だが、このように思っていることを具体的な言葉に置き換えると、どうしてかラジカルさが出てしまうものだ。こんな時、言葉の持っている限界を感じたりもする。
 ともあれ突き詰めて考えると、冒頭にも示したとおり、世の中のすべてのことを把握したり認識したりすることは出来ない。64億5000万人の地球人すべての頭脳を使ってもそれは不可能だろう。いや、人間が作ったわずか一つばかりの物事のカテゴリーの真実もわかることはほとんどないのだ。生物で言えば地球上の生物の全てを発見したわけでもないし、人間であれば男と女がある理由もわからないし、明日の天気予報すら外すことは少なくない。卵が先か親が先かもわからない。「風が吹けば桶屋が儲かる」かどうかもわからない。鹿児島駅の駅弁の味すら私にはわからない。科学なんてものも運用するのが人間なのだから当てにならないことが多い。医学は驚くほど進んでいるはずなのに、肝心の病室のベッドは相変わらず満杯だ。平均寿命が延びて病気が増えているのではなかろうか。本当に人間は助けられているのか。世に真理は恐らくあるのだろうが、人間に見出せるかどうかは今のところ実に疑わしい。このように万般に亘って認識不足・経験不足なのが人間のリアルな姿だ。どうしようもない現実である。そしてそのどうしようもない現実を我々は生きている。

 逆に考えてみよう。人はどうやっても認識不足なのだから、人生というのはその終焉まで「認識を広げる旅」なのかもしれない。その時その時に自分が持っている認識で社会や真理に立ち向かわねばならない。自分の認識を絶えず疑っていては弱気になってしまうこともあるだろう。だが、あえて私は言いたい。「同じ生きるなら人生は強気に進んだ方が楽しそうだ」ということを。自分の現在持っている認識が正しいものであることを願いたいが、そうではないこともあろう。いや、そうでないことの方がほとんどか。それでもこの自分の脳と体をひっさげて何十年かは生きねばならぬ。不完全な己を連れ立って前に進まねばならぬ。
 完全な認識を得てから行動したいという人がいたら伝えて欲しい。「足を怪我している人」のことを考えてみよと。足の怪我があれば歩けない。普通は歩けないならどんな手段でも使って病院に行くだろう。這って行くなり、人の助けを借りるなりして病院に行くことを考えるはずだし、事実そうするはずだ。だが、完全な認識を望む人は「足の怪我があるため病院にはいけない。治ってからなら病院に行ける。」と考える。これでは論理は正しくても実際は順序が逆だ。世の中のこと全てに当てはまるだろうが、完全を期してから歩むのでは遅すぎる。時を失いすぎる。下手をするとそんなことを考えている間に人生が終わる。この世に生を受けた以上、何とももったいない話だ。だから己の認識や実力が足りないことを承知しながら一歩踏み出さねばならぬ。人は決して自分ひとりで生きているわけではない。信念や目標を共有出来る人となら大きなスケールで自分の役割を求めることも可能なのだ。そうやって自分自身を育てることしか我々には出来ないのだ。そしてどうしても人間の行動には認識不足がついて回る。だから人間は成長し続けねばならないということを考えるのは人生をポジティブに捉える秘訣でもあり、ある意味で人生の目的とも合致するのではないだろうか。

 

 人生は認識を広げる旅である。そしてそれは強気に行うべきである。自己完成の積み木は不断の学びと行動により組上げられるのだ。組上げた「それに」次の世代の人間を乗せて、より遠くを見渡せるようにせよ。そうやって初めて後世に恥じない生き様を演じることが出来るのである。

 

 今日の思考訓練はここまで。明日は今日よりも成長していたいな。


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しゃくれアゴ

久々にお邪魔しました。
あいかわらず、思考を続けられているようで。

私の頭も思考の渦だらけです。
「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」
「私のルーツはどこにあるのか」
「時間とは何か」
「地球の歴史は現在の地球史(世界史や日本史)で正しいのか」
「NASA発表の宇宙に関する情報は正しいのか」
「なぜGUNDAMや仮面ライダー、ウルトラマンに惹かれるのか」
・・・
謎だらけですね。

私も生きている限り、昨日より進化した(何らかの経験をした)自分でいたいものです。
by しゃくれアゴ (2007-05-11 02:24) 

barbie

好奇心が旺盛な方です。ブログのお陰でいろんな事をやってる人とか、物事の考え方とか、ずいぶん視野が広がりました。私は外で仕事をしてますが、家の中に居ると特定の付き合いに限られてしまいます。これでは視野を広げようにも仕方がないですね。
その意味でも地域差、性差、年齢を問わず楽しめるブログの意味は大きいと思います。
○○人は××というステレオタイプ的な判断が危険であることは、日本語教師の勉強をしてる時に学びました。関西人でも大阪、京都、神戸・・・ずいぶん違います。もちろん京都でも市内と郡部では。最近は地域差というより、個人がどう育ってきたかに由来する方が大きいような気がします。
特定の考えにとらわれず、認識を広げて柔らか頭で行きたいと思っています。
by barbie (2007-05-11 10:13) 

kyao

このことについては、思うことがたくさんあるので、簡単に。(^^)
「人生を歩む」ということと、単純に「時間を費やす」ということはおそらく違うと思うんです。言葉を換えれば「楽な道ばかりを選んではいけない」ということかもしれません。
人間、生きていればそのときの勢いに流されることもあるでしょうし、声の大きい人に迎合すれば楽に生きていけます。でもそれは自分の人生の道幅を狭くし、選択肢をも減らしてしまう。それは果たしてその人にとって「生きている」と言えるのかどうか。「成長」という言葉についても同じですよね。(^^)
理想論に終わってしまう危険はあるかも知れませんが、それでも人は理想なしでは生きていけないと思うのです。どれだけ歳をとっても、志だけは高くありたいと思う今日この頃です。(^^)
by kyao (2007-05-11 12:16) 

参明学士/PlaAri

★しゃくれアゴさん、お久しぶりですね!お元気でしたでしょうか??

>「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」~

まさに我々の大課題ですよね。本当はこうした問題に如何に応えるかということが高等宗教や哲学の役割なのでしょうが、今の段階ではどうでしょうね。オウムのようなものばかりが宗教ではありませんが、わけのわからないものが多すぎるので峻別していかないといけませんよね。

人間をかなり限定的に物質的な側面から見ることに絞ってみても、生きている精子の連綿たる流れが我々ですよね。その意味でまさに今の人類の五体に祖先は生きています。死んだ精子には跡を継ぐことは出来ません。ただその継承は肉体だけなのか、精神は伴わないのか、判別する術は今のところありませんね。ただ一つ言えるのは、こうしたことを「考え続ける」ことが人間にとって重要であるということではないでしょうか。すなわちそれが「自分探し」でもあるわけですから。

★barbieさん、確かにブログでこうして交流を持つことそれ自体が認識を広げる一助になりますよね。そしてそういう角度での「感じ方」を持ち続けるという事がブログに取り組む瞬間にも繁栄されてくるのだと思います。

>○○人は××というステレオタイプ的な判断が危険であること

仰るとおりだと思います。最近の人類はこういったステレオタイプを基にした判断基準を持つ傾向を感じてなりませんね。学問が進化したからなのかどうなのか、色々な物事を特定分野にカテゴライズする動きがすっかり定着していますが、ステレオタイプによる認識がこうした志向に一役買っているように見受けられます。何でもかんでも特定の枠や方向性にまとめてしまって、問題理解の助けにしようとするわけです。ですが、そうした安直なカテゴリー分け自体が多彩な個性や発想、あるいは真理を理解できない土壌を作り出しているのではないかと思います。頭が柔らかいということは多くの価値観の存在があることをまずは受容するということです。それが出来ない人は頭が固いと言われても仕方がないでしょうね。
私もbarbieさんをはじめとするブログ仲間の皆さんのおかげで視野は確実に広がってきている実感があります。なんとありがたい交流でしょうか。これからもどうかよろしくお願い致しますね。

★kyaoさん、

>「人生を歩む」ということと、単純に「時間を費やす」ということはおそらく違うと思うんです。

そうですね、仰るとおりだと思います。ただ過ぎ去って行く時間・月日なのか、歩んで行くことによって日にちを追って行くのか。人生の満足度はいかにもそういうところに関わってくるものだと感じます。いかに金銭に恵まれていても幸福と直結しない事例を我々人類はたくさん見てきていますが、人間としての成長を覚知できない人に満たされる幸福のポジションは確保できないように思われます。

>楽な道ばかりを選んではいけない

とても大切なことだと思います。最近の人たちはどうも「楽な方向を選びすぎて、結果壊れてしまった」とも見えるのですよね。楽しいことは悪いことではないのですが、単に快楽に対して安直なことは非常に己を貶めます。

楽な道と言うと、話は飛躍しますが最新医学(科学)に対しても時々思うことがあるのです。端的に苦痛や病理から遠ざかろうとする治療が果たして人間をどれほど救ってきただろうかと。医学が進歩しているにも関わらず病院のベッドはいつも満杯ではないですか。追放した病がある反面、また襲ってくる新規の病があります。患者自身が主体的に病気(自分の異変)と取り組む精神機会を喪失させてはいやしないか。患者自身が己の人生や生活を省みる機会とせずに、外的な治療によって苦痛だけを遠ざけようとしてはいないか。苦痛は己へのメッセージではなかったか。などなど、まだ私自身の考えの中でもまとまりはありませんけれど、総じて「楽な道」を志向した人間の結果が現代なのだとも感じるのです。

そうした中で己に成長を課す日々がどれほど輝かしいでありましょう。どれほど人間らしいことでありましょう。自らの成長を意識するのは生物界広しと言えども人間だけです。言うなればそれは人間の特権でもあるはずです。特権の行使を放棄するなんて、本当にもったいないことです。快楽の追求のような獣性だけでは人間らしさや生きる意味を見出すことはできないと思います。現代はまさにそういうロジックに基づいた哲学や高等宗教の出番だと思うのですが、その為にはまだまだ人類の向上が要請されますね。

>それでも人は理想なしでは生きていけないと思うのです。どれだけ歳をとっても、志だけは高くありたいと思う今日この頃

私も全く同じ事を考えています。現代の民主主義理念や科学技術は昔はまさに「理想」そのものでした。「絵に描いた餅」そのものだったのです。その理想を抱きながら、それを具現化してきたのも人類の歴史です。この現代に生きる我々が高邁な理想を描くことは後世の人類への贈り物となることでしょう。思想家だったでしょうか、科学者だったでしょうか、面白いことを言った人がいました。「人が脳内に想像することは、すべて可能なことなのである。出来ることしか浮かばないんだ。」と。

少なくとも私もそう信じてこの人生を歩んでいきたいと思っています。こうやって皆さんへのコメントレスを書いている間にも、不思議と希望と勇気が涌いてくるような気が致します。皆さんに改めて感謝いたします。
by 参明学士/PlaAri (2007-05-12 02:35) 

銀鏡反応

人生はその終焉まで「認識を広げる旅」…まさにそうですね。生きているその間に沢山この世についての様々な認識を広げることで、人生がトテモ豊かになる、そんな気が致します。

兎に角、人生、何が起こるかわからない、どんなサプライズがあるかわからないものです。半ば偶然的、半ば必然的に物事が起こるとされているのが人生です…。だからいろんな不安があって当然だし、それに世の中というのはまさにいろいろな個性が寄り集まって出来ているのだから。

しかし、だからこそ、様々なことへの認識を、いまわのきわのそのときまで、広げていくことが大切なのですね。

そしてそれがおそらく、好く生きる、ということなのでしょう。
by 銀鏡反応 (2007-05-12 22:00) 

参明学士/PlaAri

★銀鏡反応さん、仰るとおり偶有性(銀鏡さんならおわかりですよね?)が人間のなしうる妥当な認識の一つだと思います。世の中というのは確かな確度で裁定できるものは思ったより多くはありません。必要なのは事象に対する認識をする際の自分が持っている「評価軸」なんですよね。金のフィールドなのか、利害のフィールドなのか、人類のフィールドなのか。どの立ち位置に自分が立つのかということが己の認識の精度を磨き高めて行く分かれ道になるように感じます。

>様々なことへの認識を、いまわのきわのそのときまで、広げていくことが大切

はい。やはりそういう結論になると思います。そして絶対的に中途半端な認識を抱えながらも、何らかの「行動」を人間は起こさねばならないと思います。この「行動」を起こすということそれ自体が思考する人間にとってはかなり難儀さを伴うものなんですよね。時にはそれが精神を病む場合もある。高度な思考とそれに見合った行動のセットがシャキシャキできるような人がいれば、その人は充分に幸せな日々を送っていると言えそうです。
by 参明学士/PlaAri (2007-05-13 00:56) 

りんたろ

「強気」これは今の私に一番必要な言葉なので、ありがたくいただきます。
それにしても、ステレオタイプな人は多く、周りの雑音は様々、その中から自分が正しいと信じるに値する情報を選び、正しいと思う方向に進んでいくしかないのですね。
「今」を大切にすることを積み重ねて行こうと思います。
by りんたろ (2007-05-14 18:22) 

参明学士/PlaAri

★りんたろさん、人生は強気で進む方がきっと精神的にも肉体的にも豊かになると思います。頑張ってくださいね!

>ステレオタイプな人は多く

そうなんですよね。人間って物事に対して何かしらの判断や評価を下していますから、どうしてもステレオタイプに陥りやすいんだと思います。そこを理性に引き戻すのが学問だったり、豊かな思考だったり、平等性だったりするものなんですが、なかなか社会はそうはうまくいってませんよね。

りんたろさんの「今」が輝いていくものであることを陰ながら念願しておりますよ!
by 参明学士/PlaAri (2007-05-14 19:23) 

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