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ファッションはなかなか大変 [エッセイ]

 ちょうど百貨店でもほとんどクリアランス(バーゲン)が終わった時期である。店に行くと日本は本当にモノがたくさんあるなと嘆息するほど。

 人の欲望というのは尽きないもので、何か一定のサイクルで欲しいものが出てくるような気がする。

 私ならば、本だったり、CDだったり、楽器だったり、服だったり、PC関連だったり、ケータイだったり多様な品種がゆったりとした間隔で欲しくなるのだ。ここ最近は「服欲しいサイクル」から「PC欲しいサイクル」への移行期だなぁと感じている。一方で食に関してはいまだに熱心になったことがないのはご愛嬌。

 PCを買うのは単価も高いのでそれなりの決断があるわけだが、服もコーディネイトを考えるとわりと高くつくもの。学生の時なんかは服よりも本を集めることに集中していたから、今もその遺産で家の中は大量の本で圧迫されてしまっている。少しずつ処分しようかと考えるのだが、思うようには進まない。

 さて、今回のテーマは「ファッションはなかなか大変だ」ということなのだが、思いつくままに「何が大変なのか」を考えてみたい。

  • そもそもファッション(流行)というのは一過性を持つもので、長持ちさせるのは難しい。だから私は奇抜なものはあまり好まない。比較的シンプルで長く使えそうなものをなるべく選ぶようにするが、そのシンプルさとて流行があって悩ましいことが多々ある。店員がどれほど薦めてきても奇抜なものは一切聞き入れない。というよりも、自分が考えているモノ以外は基本的に店員の意向に揺さぶられることはほとんどない。(店員は基本的に高いものを客に買って欲しい。だがこちらは欲しい物を選ぶだけだ)
  • シャツが良い物なら、ボトムス(パンツ・ズボン)も粗悪な物は使えない→金がかかる。
  • ボタンが外れたりするとやっかいである。裁縫技術がない私は苦労する。
  • 良品だからと言って、常にクリーニングすれば金がかかり、一方で自分で洗濯するのには不安が残る。繊維や素材に基本的に無知なため、伸びや縮み等のダメージを与えることがある。
  • 服の傷みを考えて、ショルダーバッグを避けたりするので(肩にかけるとその部分の傷みが早い)、バッグまで視野に入れてコーディネイトしなくてはならない。
  • 店員は「おしゃれは足元からですよ」などと言って、靴も考えなくてはいけなくなる。それは事実だろうが、結局は首から下はほとんど数年に一度のペースで入れ替えることになる。ついには「見えないところがおしゃれの大切なところなんですよ」などと店員は言い出して、ベルトや靴下なんかも購入を勧めはじめる。私としても見た目に全く気を配らないというわけにいかないから、それなりの投資が必要とされる。

 このように、ファッションを考えるということは大変である一方でメリットもあるだろう。

  • 洗えそうなものは極力、自分で洗濯をするようになるので素材知識や洗濯方法などをネットで調べたり、自分なりに研究したりするなどして、家庭的な能力が向上する。
  • アイロンをかけるのも気持ち一つでかなりの上達が見込める。出来れば覚えてしまうことに越したことはない。
  • 裁縫技術もボタン付けくらいは出来るようになった方が良い。それにトライするチャンスは確実に増える。
  • 服にある程度の気配りをすることで、心身ともに社会的に健全な感覚を維持しようとするクセができる。


 と、思いつくままに並べてみたが、服をはじめとする「モノ」というのはあくまで人間の外側に位置づけられるものであり、やはり根本的に大切なのは人間の内面であり心である。金さえあれば美しいコーディネイトは可能だろうが、極端に内面と外面の差がある場合は見苦しくさえあるように思う。アクセサリー類でギラギラさせすぎるのも考え物だし、流行モノばかりの組み合わせも逆に見る側に「良さ」を与えないケースがある。

 一方で、よれよれの適当な服を纏っている人が「自分は服に興味はない。そんなものたかが知れたものじゃないか」と言うことがあるが、大概の場合そういう人にはその他の分野でも魅力がなく全体的にも振るわないことが少なくない。服の洗濯もそうだが、本人の体も清潔でなかったりするなど、バランスを欠いた姿である。つまり自分が他人にどう思われるか、どう映っているかという配慮に欠けており、周囲との没交渉を自ら表明しているようなものでもあろう。

 ともあれ、トータルコーディネイトを判断するのは結果的に自分の内面(判断力)である。だから華美過ぎたり、度の過ぎる奇抜さというのは「その人の内面を率直に表した結果」とも見ることができようし、服に全く配慮無く適当な場合(要するにだらしない)もそれと同様であろう。何が同様なのかといえば「双方とも非常に自己中心的な志向性の持ち主」ということではないだろうか。TPO(Time,Place,Occasion)をも度外視したスタンスを取るのもこうした人たちに多いようだ。現代は様々な場面で「自由」という主張がなされるのだが、協調・調和・寛容を欠いたスタンスは結局のところ「自分を含めた大多数の利益」に適わないことが少なくないのではないだろうか。

 そう考えていくと、やはり人間というのは「内面」にかかっている。心のありかた、持ちようで、自分と社会との関わりを適切に判断できるようになるはずだ。人格と見た目のバランスが安定した人にはそれなりの魅力があるもの。服を良い意味で着こなしていくのと同時に、内面を成長させる日々を送りたいものだ。そうした意味において服の似合う人間になっていくことこそ、ファッションの本当の楽しみというものが出てくるのではないだろうか。


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銀鏡反応

おっしゃるとおり、見た目が派手過ぎるのも、服装にまったく無頓着なのも、言ってしまえば「自分さえ良ければ他人の目・評判など無関係でOK!」というスタンスなのだ。

所謂「人の迷惑顧みず」というもので、こういう人は協調・寛容・調和を欠いた、だらしのない生き方の姿勢がそのまま、服装にも現われる為、最悪の場合、誰からも相手にされずに嫌われてしまうので、最終的には自己を含めた大多数の世の利益に寄与することはできないだろう。

「自由」を主張するのなら、おのれと他者との関わりは如何あるべきか、を常に考慮し、人格と見た目のバランスをとれるようになることからはじめるのが、いの一番に必要だと思う。
by 銀鏡反応 (2007-08-12 21:53) 

参明学士/PlaAri

★銀鏡反応さん、現代では「適切・適度・バランス」といった分野の価値観が多様になったというか、乱れたというか、評価軸がブレにブレているように感じられます。

「自由」という概念と引き換えに「品格」を代償として失いつつあるのかもしれませんね。人との関わりあいの中で「適切」という感覚を消失してしまうのは、自由が誤解されて運用されてしまったものなのか、はたまた文化の発展の転徹機の作用が表出しているということなのか、判断は容易ではありませんが、自由へのスタンスをただ単に「ひそみに倣う」風潮がある現代に不安を感じないわけにはいきませんよね。
by 参明学士/PlaAri (2007-08-13 11:49) 

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